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「正月の夕方、自宅の中庭を見ながら考えたこと」

08.01.12

謹賀新年 年明け早々、息子が水疱瘡にかかってしまったので、正月はどこにも行かず箱根駅伝を旗を振って応援して、家の掃除をして終わりました。特別なことをしないという過ごし方を一般的には「日常」と言い、普通ではない事は「非日常」と言います。でも特別なことをしない時にしか、普通の中に潜んでいる新しいこと、あるいはしばらく忘れていた新鮮な出来事を発見出来るチャンスがないのも確かですね。ということは、日常の中にしか非日常は存在しない、と言ってしまってもいいのかもしれない。例えば旅行に行ったとする。これは十分過ぎるくらいに非日常だが、非日常の中から非日常は発見出来るのか?もしかしたらそれは合目的であり過ぎるがために、非日常を旅行先で発見しました!とは言いづらい立場ではないか。もっと掘り下げて考えると、そもそも非日常に基準など実は無く、単なる個人の思い込み、個人単位の相対的な感動の度合いによってその非日常性が決まるのではないか。ならばわざわざ旅行など行かずとも、むしろ今居るその場で、日常の中でこそ非日常は見つかるかもしれない。



自身を取り巻く僅かな変化や、出来事に敏感に反応し、そこに感情が伴った瞬間に「きれい!」と発する。それは言葉であって言葉にはならない発語。完全に本能から発せられる反射神経。原始時代からおそらく脈々と続いているであろう精神の言葉。その僅かな変化に敏感に気づき感動する(正確には気づいていない、ただ感動していた、それだけ、それ以上何が必要だろうか)、つまりこれ以上言語に還元出来ない究極的な意味での「美」を感じることが出来る繊細で純真な血液で満たされた人に私は憧れ惚れる。私は最近ある女性からその感覚を得ました。その人は言葉に出来ないくらいにすべてが美しく、自分が忘れかけていたその新鮮な驚きと感動に涙が出るくらいにうれしかった。

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