08.05.02
先日、宇都宮で行われた展覧会のついでにスタッフを連れて日光と鬼怒川温泉に行ってきました。旅行というほど大げさなものではありませんが、こういう機会でもないとなかなか行けない場所も案外多く、私は実は日光も鬼怒川温泉も行ったことがなかったし、スタッフも同じだったからちょうどよかった。日光で何を観るか、なんて考え出すとまるで観光になってしまうから、あえて何も調べずに(とは言え、学生時代にブルーノタウトの東照宮批判は読んだから偏った知識だけはあったのだが)気軽に行って来ました。東照宮へと続く参道を前にして、予想外に庭園があったので、興味が湧いてきて寄り道。中はだだっ広くて凝縮感の少ない雰囲気だったが、池の畔に建つ3帖しかない古い休憩小屋を発見。
多くの観光客が通り過ぎる中、まるでお茶室の様なその空間の気持ち良さに見とれてしまい、一緒に建物の各部を採寸。まず手摺りの高さや縁側の奥行きと開口部のプロポーション、軒先の低さと建具の内法高さの関係、引き込み建具の部材の細さと建築のスケールの整合性、反射した水面の模様が障子に写り込み、さらに屋内へと完全に真っ白に濾過された光を充満させる圧倒的な美しさ。そして何よりもその3帖の間の人体スケールへの密着感が感動的に私は好きで、普段我々を取り巻くあらゆる全ての建築空間がスケールアウトしてしまっている事実を、強く気づかされる。少し歩いて池の対岸から建物を眺めると、縁側を支える細い柱が、池に向かってスッと下りているプロポーションが、弱々しい建物の浮遊感をさらに引き立て、さらに地盤に建物本体が鎮座すること、つまり停滞することを避ける様に、躍動感というか動きを感じさせてくれる。
そんなことなどを一緒に話しながらスケッチをした後、庭の散策を続行。その時既に私は完全に浮かれモードだったから、全てが建築的に見えてきた。細い散策路の登り下りと樹木と風景が絡んで、路地の断面プロポーションが設計者(造園の)に操作、制御されていること、小川の流れに「音」を挿入して、さらに少し離れた別の小川と強弱を付けて(というか音の質を変えて)距離感と風景の差異を作り出していること、池と陸の境界部に線状の結界を作らない様にわざとバラバラに岩を配置した対岸に、今度はわざと石積みで線を引き、さらに樹木を池に張り出す事でその境界線をぼかしている演出。これは均一性を嫌うための操作とも言えるが、狭い川に複雑な風景を作り出すためには必要だったのだろう。さらに歩くと石橋があって、これも素直にこちらと対岸を結んでいない。重たい石が、ドンと鎮座する(つまり意識の停滞)を避けるかの如く、途中でばっさりと切断されて浮いている。
まぁ、そんなわけできりがありませんが一時間半くらいはぶらついた様な気がします。その後東照宮など幾つか駆け足で廻って、(ここは端折ります)お昼過ぎには鬼怒川温泉へ到着。一緒に行ったスタッフが温泉好きでよかった。何かを観るということではなく、ただ温泉に浸かれればよかったのですが、実は風景をみることはとても大切な事で、何も建築物ばかりを観るのが能じゃない。私たちが空間の設計をするとき、結局心象風景を構築し直す作業になるから、その風景っていうのは、建物を勉強したからといって身に付くものではない。ただ風景を見て感動すること、その場の空気や過ごした時間の気持ちよさがそのまま時とともに熟成し、さらに年月がたって変質し、その人の人格を構築していく為のとても大切な源泉となることは間違いないと思う。だから鬼怒川温泉の街をふらふら歩きながら見上げた空の青さや山の稜線の透明感、煙った感じの太陽のまぶしさは、きっと私と一緒にいたスタッフも財産として蓄積されたと思う。