07.12.15
日本建築家協会神奈川地域会の主催で藤江和子氏の講演会が開催されたので行ってきました。企画しているメンバーは建築家高橋晶子さん率いる事業委員会で活動している若手建築家が主で、私は別の企画を担当したので今回は参画していませんでしたが、友達が皆頑張って企画していて充実した講師陣が魅力です。
さて、藤江和子氏と言えば建築家とのコラボレーションで有名な家具デザイナーです。が、やはり講演会を聞いて「家具」と言うにはあまりにも狭義であり、建築家に負けないくらい空間を作り出している仕事という印象です。私はそもそも、家具デザイナーと言われる人々が活躍する舞台があることに疑問を持ちながら講演会を聞いたのです。家具と言ってもテーブルや椅子に限りませんが、まずはその様な移動家具を例にとれば、本来日本建築に家具は無かったと思うのです。居るのに最低限必要なものは座布団くらいで、あとは床の仕上げや段差に応じて居方が変化してゆき、障子や襖などを用いてスペースを適度に仕切ながら場所の限定を図ることで、人がそこに座る必然性を見いだす事が出来る仕組み。建築の骨格そのものに家具的な要素が既に内蔵されているために、それ以上なにも置かなくても、快適に生活出来たのだろうと思います。私は古い民家で生まれ育っていますのでソファーとはあまり縁がない生活を送ってきました。一般的に言う家具という物は、その物がもつ極めて強い使用目的性が場所に拘束性を生み、よって場所の意味が成立する様な気がします。乱暴ないい方をすればガランドウな思想を持たない空間ほどうってつけという事にもなりかねません。とりわけ住宅建築というカテゴリーについて言えば、やはり家具に頼らなくとも居場所がきちんと見つかる家がいいなぁ、といつも考えています。奇しくも「現在の日本の建築は、人と接触することが出来ないつくりになっている」と藤江氏の発言があった瞬間はとても驚きました。つまり、家具に頼らなくとも、建築の壁や床の段差や柱や、いろんなものに直接触れて、もたれて、座って、そして何かの行為が発生することを拒絶するかの如く、座れない、居れない、だから体を拘束するために家具が要求される、とでも言いたげな発言だったのです。「だから建築家が悪い」という彼女の言葉はとても説得力があり、私が日頃住宅建築の設計を通じて考えていることのど真ん中、本質を言い当てている気がしました。そこで何をするか(機能)、はどうでもよい。どう居れるか(過ごし方の質感)をリアルな空間を通じて提案することが私の唯一の職能なのだ。